武術のスポーツ化
武術のスポーツ化の開始でした。
しかし試合の盛行は競技礼賛には至らなかったのです。
精神修養の価値が優先したのです。
そのよい例が三十三間堂の通し矢批難に見えています。
通し矢とは、京都の三十三間堂(正しくは蓮華王院)が南北六十六間(約120メートル)の長縁をもつのを利用して、縁の南端から矢を放って、縁と軒がつくる空間を射通した矢数を競うものでした。
夕刻から夕刻までの一昼夜を射続けたもので、残された年代矢数帳によれば慶長11(1606)年の尾州清須の家人浅岡平兵衝が出した51本を皮切りに・・・
幕末までの255年間に、延べ90藩、8212人が40回の記録更新を行なっています。
競技は江戸時代としては異例の全国規模大会であり、士農工商四民をまき込んだその人気は、通し矢が行なわれると聞くや洛中洛外から見物人が堂に雲集したと伝えるほどの騒ぎようでした。
・・・その上、藩同士の対抗意識が人気の底を支えていました。
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